親父殿は家を空けがちだった
物心がつき気がついたらボクは母と兄に虐待に遭っていました
でもそんな事を幼かったボクが親父殿に言えるはずもなかった
たまに帰ってくる親父殿の姿を見るとそれだけで安らぎ幸せでした
親父殿の匂いが大好きでした
親父殿の手指先 背中 胸 すべてが・・
メガネやタバコ 親父殿の吸い終わった吸殻でさえ。
親父殿が寝ている時 ボクは寝ぼけて親父殿の部屋へ行き布団にはいった
朝 隣に居る親父殿に「ボク連れてきてくれたん?」
そんなまじめ顔のボクに親父殿は笑って返してくれた。
親父殿の乳首を吸って離さなかった事も憶えています
「あほー よせ~っ!」親父殿は結構真剣にボクを体から離した
ボクは笑った
そんなボクを見て親父殿も笑ってくれた。
「ワシは子どもあかんねん 接し方がわからへんねん・・」
このコトバは親父殿の口癖だった
でも子どもは解る 伝わる
だから幼かったボクは一杯親父殿に
「だいすきだよ」
「ボクはここにいるよ」
「いつもありがとう」
それをいっぱい いっぱい・・伝えた
親父殿もぎこちないながらも 多くの守り守られる安心を返してくれた
晦日の夜、清荒神へ参拝しに行く参道の途中でボクは疲れ親父殿の背中で負ぶってもらった事
そして帰り道は覚えていなく目を覚ます場所はベットだった事
混んでいる電車で疲れた時、親父殿は電気椅子に似た中腰でボクを膝の上に座らせてくれた事
一度、百貨店の玩具売り場で買ってくれないオモチャが欲しいと床に転がり泣き叫んで親父殿を困らせた事
そしてその玩具はボク自身実は、さほど魅力的な物ではなかった事・・
近所の沼地で親父殿が足場の悪い場所で池を覗いている時に驚かそうと背中を押し、
本当にビックリした親父殿は大きな声で一発怒り、それにビックリたボクは家へすっ飛んで帰った事
そんな驚きから大好きな親父殿に怒られてしまった・・
親父殿はボクのことをキライになった・・ と部屋の片隅で泣いた事
そして親父殿は静かに帰ってきて そっと
「ごめんな~ (ボクが)びっくりしたな~ すまんの~。。。」
そういってボクは「ごめんねー」と親父殿に力一杯しがみ付いた事も・・・
そしてボクが落ち着いた頃に「ワシ(親父殿)もビックリしたわ~ 危ないからあんな事したらあかんで~」
そして「うん ごめんなさい、もうせ~へん」と言えた事
当時すでに珍しかったSLに乗せてもらった事
機関車と連結される先頭の客車に乗りワクワク ドキドキ・・した事
遅いはずの車窓の景色が早い流れに感じそして突然のトンネル・・ テンションが絶頂になった時、
トンネルの出口で汽笛が鳴りボクは飛び上がって驚き 泣いた事
親父殿 そして他の乗客もとっても優しい笑顔で包んでくれた事
落ち着いて改めてボク自身が飛び上がった事に驚きと感動?、そして
「どんだけとんだ~!?」「いっぱいとんだ~っ?!」「何十センチとんだ~?!(覚えたてのコトバ)」
「1メートルとんだ~?!」「あ~ 飛んだな~ いっぱいとんだな~」と優しく答えてくれた事
ボクのカラオケデビューは親父殿の教えだった事
もちろんカラオケ機はスナックのガチャポンカセット(1/4in=8トラ)の時代からはじまり、
ボクが大人になった時には(スナック/通信カラオケ)親父殿とのカラオケ対戦になっていた事
そして次に帰省した時には親父殿はボクの持ち歌をマスターしていた事
いくらでも いくつでも親父殿とのことは幼き頃の事も 苦き事も
今も安らぎとして心身が記憶している・・・。
◇
そんなボクは幼稚園の頃から、よくプチ家出をしていた。
なんでボクは生まれたんだろ・・
なんでかなしいんだろう・・
ボクなんか生まれて来ない方がよかったのに・・
そんな事を思う日々の方が多かった。
一週間に一度は帰ってきてくれるその一週間でさえ何カ月にも感じた。
大人にとっての1日は幼いボク(子ども)には何倍も何百倍も長い時間だった。
小学生の低学年のある日、幼きボクは一大決心で大好きな祖母と親父殿が暮らす家に逃げたく家出した
ボクの身長を遥か超す改札を抜け電車に乗った
三つの電車に乗らなければならない道のり
一駅目で乗り換えるための電車でさえ長く感じた
早く逃げたい・・ 早く会いたい・・・ 恐怖から逃げ惑い焦る気持ちですでに心はパンクしそうだった。
そして一駅目の乗り換えであった
ホームで制服を着た大人に声をかけられた
連れられた場所は駅員室・・ 優しく声を掛けられた事は今でも薄らと記憶する・・
ボクはずっと口を閉ざしていた。見上げるおっきな大人の人たちは優しそうだったけど。
絶対に祖母の所に行きたい、祖母と親父殿に会いたい、抱きしめられたい・・・
その思いが強すぎて、黙っていることしかなできなかった・・・。
駅員室を出入りする大人の人たちは皆優しく包み込むように笑顔をくれてた。
黙っているそんな可愛気のないボクに何人もの駅員さんは食べ物や飲み物を色々と目の前に置いてくれた。
しかしそれらの思い遣りに一切手をつけないボク。
優しさや温もりが伝わっていたボクは、声を出さず目に涙を溢れさせていたこと
その視界の先でボヤ~っと映る優しい頬笑みの口元を記憶している・・・
そんな時間がどれだけ経ったのか・・
背後から心身が硬直する声が聞こえた・・
母だった。
何もしゃべってないのに なんでっ
我を感じる強い手がボクの腕を引っ張った
駅員室の出口に連れられる中、「よかったね~ お母さんがきてくれたよ」
振り返り優しく微笑む駅員たちに心の中で叫んだ
「ちがうのっ ちがうのっ!」
何人かの若い駅員さんがボクの幼い心の声を受け取った様子が窺えた
声を掛けなおす駅員さんの言葉に対し"礼"の言語を投げ放ちながら威圧制する母が圧勝だった。
家へ帰る道 強く引っ張られる全身が硬直していた そして母の言葉があった
「あんたっ 解らへんとでもおもったんっ?!」
「お婆ちゃんとこ行こうおもたんっ 私が怒られるんやからっ やめてんかっ!」
「逃げよう思たって無理やでっ」
胸元を見るとボクの首から住所と名前、電話番号が書かれた札がぶら下がっていた。
その夜 母と兄からの言葉での虐待の後、必死に首にかかった札の紐を切ろうとした
次の日も その次の日も必死で紐を噛み切ろうと続けた・・
◇
そんな名札がない時もあった
今日は帰ってくるのかな・・
庭先でポピー(わんこ)と遊んでいると頭上からやわらかい愛の声が聞こえた
親父殿は児童月刊誌を手土産に持って帰ってきてくれたことがあった
(何故買ってきてくれたのか ボクが大人になってから聞いたが親父殿は覚えていなかった。)今日と明日は親父殿がいてくれる日、本を喜んで読むボクの姿を微笑んで見ていてくれていた事、
その時、ボクはわかっていた。そして今でもその安心の空間を記憶している。
本は嬉しかったが、ボクにとっては何よりも親父殿が傍にいてくれることが安らぎだった。
親父殿に思いっきり甘え、我がままでいたかったボクがいた。
(大人になりそんなボクの甘えを思い出話を親父殿したら、"ボク"は全く我がままではなく・・ それどころか"ボク"はほっといても育つんちゃか?と当時を語ってくれた)育った家の庭は 幼きボクにとってちょっとした森だった。
親父殿はボクにとって冒険家の隊長だった
ポピーは親衛隊
そしてボクは足手まといな隊員、いつも親父殿のズボンや手をしっかりと握っていた。
◇
時とともにボクはすこしずつ体がおおきくなった
親父殿の背中を見て・・
親衛隊も世代代わりしていった
ニワトリ親衛隊もふえた。
次第に森に見えた庭が普通の庭となった
親父殿は出来る限りボクを連れてあるいた
そしてボクも許される限りついて歩いた
母と兄の視線を気にしながら
親父殿の居ない時間の恐怖と不安を見ないようにして・・
親父殿はその状況を知らされず 知らず・・
ボクの中では日常会話をしていたつもりだった
それは違っていた
ボクは家族の前では殆ど喋る事はなかったようだ
親父殿の中では ボクに何かあると・・ (後に聞かされた)
病院に行った方がよいのか・・と相当悩んだという。
(結果、一度だけ小児科に行ったのを憶えている。そしてその日から"2,3日"母と兄のボクへの対応が変わったのも)◇
家から散歩がてらによく六甲山へ縦走した
まだまだちいさいボクだった
すれ違う人はゴッツクて重そうな靴を履き杖みたいのも持っていた
中には猟銃を背負ってぃる人も珍しくなかった
そんなお山の散歩を親父殿は通勤用の革靴で登っていた
ある日、親父殿は学習したのだろう
「あかん、これじゃ靴が持たんっ」
次に履いていたのは下駄だった・・・。
そしてボクも運動靴からサンダルに変えた・・・。
サルノコシカケに座ったり、山アケビ採って食べたり
沢ガニを見つけたり・・・
変わりゆく季節を親父殿と共にのぼった・・・。
そして いつしか親父殿が帰らぬ日も一人で山を登れるようになった。
◇
親父殿はまだ幼いボクをよくスナックにも連れて行った
小学校低学年のボクがスナックの名前を5,6個言えた。
親父殿が帰ってきそうな日の夜、電話が鳴る、走って電話を取るボク・・
「くるか~?」
小学生のボクが親父殿の居るスナックに真夜中独り真っ暗な夜道を
怖さもなく、木々が覆い茂る小道を30分歩けるようにもなった。
長い夏休みに入るたび 大好きな祖母の家へ過ごすようになった・・
祖母の周りには床山さんや芸事関連の人たちが幾人かいた
握りもちがなかなか直せなったボクをその人たちは、
ペシッっと箸を持つ手を叩きながら「あきまへんっ!」
みんな怖かった そして優しかった しっかりと守ってくれていた。
そしてそこにはその口うるさい人たちから逃げ惑う親父殿もいた
その光景はとってもこっけいで安心の空間だった。
大好きであり尊敬の祖母
祖母は親父殿が幼い時に連れ合いである夫(祖父)を亡くし祖母女三姉妹で親父殿を育てた。
そんなシツケとケジメに厳しい祖母にボクは怒られながらもそれは優しく安心した生活ができた。
夕方になり親父殿から電話がある
「出てくるか~?」
祖母の家は肥後橋 "キタ" "ミナミ"どっち?
ボクの体が大きくなるにつれ店も増えてきた・・
大阪ではスナックよりもショットバー、チョットした小料理屋や料亭、小さな会員制だった。
深夜の帰宅。祖母の怒った顔を思い浮べながら親父殿とニヤニヤしながら帰る
「何時やおもてはんのー!!」
「寝てはったらよろしいがな~。。。」
「ワタシかて"ボク"ちゃんと居たいですがなー」
昼間は一緒ですが。。。。
それは、ボクが大人になってからも変わらなかった。永遠である三世代親子の日常苦笑会話。
◇
中学に入りボクは先に相談なく新聞配達をしだした
親父殿に対する誹謗中傷する母と兄への訴えからだった
新聞配達は正直辛かった。とくに冬雪が降る中でのあの自転車のブレーキはとても冷たく硬かった・・・
それでも親父殿を想い 家族への想いが勝った
母と兄には想いは伝わらず、違う方向からの攻撃も増えた
祖母は厳しくも優しく見守ってくれた
親父殿は理由を聞かず見守ってくれた
新聞配達のお金で道場にも通いたくなった
門を叩くとすでにボクのことは知られていた
ボクがまだヨチヨチ歩きから親父殿に連れられた界隈
親父殿に連れられよく飲み?歩く界隈
そして新聞配達でも廻る界隈でもあった
師範には「月謝はいらない」と言われた
親父殿の周りの人たちはコトバは厳しくもいつも見守ってくれていた
◇
高校進学への親子面談の日、母が来た
信頼していた中学教師に想いを一言強く伝えた
「家から出たいです」
母は真っ赤な顔をしてボクを威圧した
ボクの本心は祖母の家である親父殿も暮らす家で暮らしたかった・・
だが 親父殿はそれは許さなかった
それは家を出る事に反対したわけではなかった
ボクは寮のある県外の高校へと進んだ
◇
外の世界を遊び学ぶ年頃ではあったが、ボクには寮生活の規律もよかった
規律はあったが精神や体力を持て余す年代を理解した高校教師も多かったのが良かったのかもしれない。
自我や損得、大人の見栄や都合で抑え付けるのではなく、ある程度の悪さは黙認し
ゆるく且つケジメと敬いを持ち 少年たちをしっかりと守る若き体育会系の高校教師が多かった。
その高校生活の中でもバイトをしてみた
家に帰った時だけだがバイクを使ったチョット珍しいバイトだった。
家族には言っていなかったが、親父殿はバレテいた。
しかもそのバイトをしている姿を遠くから見ていてくれた事を後に知った。
家に帰るときは、友達と会うかバイトだった。
その時意外は、寮か祖母の家だった。
気がつくとボクの体は過ぎ行く大人たちよりも大きくなっていた・・
だが、大人は大人、親父殿は父・・
祖母も変わらずよく理屈抜きのお説教を聞かしてくれた
ボクはまだ子どもでいていいと思って生活した
そして気がつくと高校を出てからの事が近づいてきた。
何をしたいのか・・ 今何に興味があるのか・・・
◇
進路は母と兄の存在がおおきかった
「何故・・」からはじまったボクに物心がつきだした幼き頃からの母と兄があった・・
自我拡大妄想からの欲動や虚言癖が多い兄、
TVドラマで母の日常行為と似た者によって辛く耐える主人公に泪する母・・ の存在が大きかった。
自我が欲動となり、自の住みやすい(庭)場所にする為には例え家族であっても許せず、同情者を増やし
攻撃の的をつくる欲動。見た目強き者には尾を巻き、見えぬ穴(箱庭)の中で聞こえないように吠える・・
そのターゲットは親父殿も例外ではなかった。ボクが物心付いた頃にはすでにそれはあり、
幼きボクにも親父殿への否定批判・誹謗中傷という洗脳をされようとしていた。
しかし、何故かボクは父に対する洗脳には染まらなかった・・。
もしかしたら、母だけではなく5歳離れた兄もそうだったからかもしれない。
これが母だけだったらボクもどうなったか解らない・・。
もちろん、そんな思い通りにならない幼いボクにも自我不満の矛先が向く。
幼い頃からの体の痛みは耐えれた。しかし、心の哀しみはあまりにおもかった・・・。
自我・欲を先とする為の他に対への言動や責任転換は、全身から出てくるなんとも説明し切れない
"負"という強い気となって母と兄から常に発せられていた・・・
体も心も幼かったボクは「なんで・・・?」 その毎日だった。
母と兄の心が透けて見えるようで それが一番に辛かった・・・
そして、そんな母と兄へもボクは「きらわれたくない・・」 「捨てられたくない・・」 気持ちがあった。
その為にも母と兄へ「だいすき」 と 幼き心で強く念じていたボクをはっきり記憶していた。
年月が経ち、いつしか犯罪心理学にも興味を持った。(立ち読みレベルです)
自尊心を抑えられ育ったボクはマニュアルが不得意でそしてマニュアルにはないモノづくりもが好きだった。
そして どんな辛い時も笑顔でいる事も身についていた。
こんな幼少期からの経験と想いは後の仕事で活かされる事となる。
そんな事も知らず けっこう進路先は他人事のようにのんびり探していた。
と言うのも ボクがやりたい事は もやっとしたものだった
それを言葉や何かに当てはめることは困難だった・・
追い詰める母や特に兄(当時大学院生)に解って貰おうと言葉を探したものの
それは母と兄の枠組みされた(箱庭)データーやマニュアルではなく、
全てを否定された事もあり、のんびり探すしかないとボクなりのボク自身への対処だった。
そしてそんなある日、祖母の考えるボクの仕事(職種)を祖母自身に置き換え提案してくれた事があった。
それはまさにボクの得意(趣味やアルバイトレベル)とする兄が否定してきた先の職種だった。
ちいさい時から教わってきた祖母からの
"学びも理屈抜きに大切にしてきた。
祖母も「"ボク"ちゃんには、特にきっちり伝えてきましたさかい」と珍しくこそばくもあり力強いコトバを頂いた。
そして後は「自分に自信を持つ事」を付け加えられた・・。
そして親父殿からは「自分自身の存在をだせるようになれる事」を
不器用な親子愛のコトバに救われたお蔭でもあった。
ボクは上京した。
◇
それから数年、上京してから帰る時間をつくれ(ら)なかった・・・
(先の事故る事になったバイクを取りに帰った日帰りの1日以外)その代わりにたまにだが親父殿が顔を見せに来てくれた
上京して間もなくまだ見習い(修行)以前にアルバイト気分だった時にボクはバイクで事故って入院した。
退院する前日に親父殿は来てくれた。「お~ まだ生きとったな~」が第一声だった。
嬉しかった・・ そして ごめんなさい・・ の気持ちで一杯になった。
親父殿はボクのアパートに帰ると言って病室を出た。
数分後、入れ違いに見舞いに来てくれた友人たちは病室に入るなり駆け寄って言った・・
「さっき"ボク"のお父さん来てなかったー?」 「うん 来てたよ・・」
「ほら~ やっぱりさっきの人"ボク"のお父さんだったんだー」 「???」
ロビーの出入り口で親父殿とすれ違ったという・・
友人たちは親父殿を知らない筈だった 照れくさかった。。。
退院した日、ボクは肋骨が3本折れた程度だったが胸はギブスでぐるぐる巻きだった。
そんな姿のボクに親父殿は言った・・ 「ちょっと案内せーや」
夜だった。「何処へ? 夜だよ? ナニで行くの?」
「バイクあるやろ~ 動くんやろ~」 事故りたてのバイクのことだった。。。
ボクはバイクの事故で入院し、退院したその日に事故ったバイクで
親父をスナックへと足代わりとして連れまわされた。。。
スナックでは「コイツ、バイクで事故起こしよって禁酒中や~(反省期間中)」
そして真夜中の帰り道、信号待ちで交番に呼び止められた・・
服の外からでも解る体中にバンソウコウを貼った若造、そしてご機嫌に酔っぱらったスーツ姿の関西弁のオッサン・・
交番を出る時には、ボクは警官にボクの体にではなく、お気の毒に・・と 励ましの言葉を貰った。。。
次の晩もその次の晩も出掛けた。
公道レースで一般世間にはただの暴走行為にしか見えないであろう暴走族と大差ないものだった。
引いてしまうのか・・ それとも・・・。。。ネクタイをしっかり締めた親父殿を連れて行った。
予想は的中した。引いたの親父殿ではなく、ゼロヨン友達だった。。。ただ度が過ぎた・・
その友達たちを連れ「どうせ車やバイクに飯ばっかり食わして、お前ら腹減ってんのやろー 喰えー」
もちろん、その親父の存在は長く語り継がれていったのはいうまでもない。。。親父殿は数日滞在し風のように関西へと帰って行った。
親父殿の名誉の為、付け加えておきます。一応、大学出の銀行マンあがりです。。。
◇
それからも数年、帰る時間をつくれ(ら)なく、変わらず、親父殿はたまに顔を見せに来てくれていた。
その頃には、仕事柄修行(学び)の期間には終わりはなく、たまに来てくれる親父殿と一緒に居られる時間は殆どなかった
ボクがアパートを留守がちだったからなのかは解らないが、共に居れる少ない時間親父殿は、
今日も一軒スナックを開拓した、今日も日帰り旅行へいった・・など親父殿の土産話をしてくれた。
そんな一見お気楽にも取れる親父殿からコトバも貰っていた。
24時間体制で修行(仕事)をするボクの姿を見て思ったのか、ある日親父殿は言った
「無理だったと思ったら帰ってきていいんだぞ・・」
「それも男として大切な決断だからな・・」
そのコトバの本意は"どれ"だったのか・・ は問わぬ事として。。。
そのコトバのお陰だと思う。ボクは若くして尊師や憧れの兄弟子の下でそれなりに仕事が順調になっていた。
その頃、兄も親父殿の口利きで就職し そしてお見合い結婚もできた。
そして
大好きで尊敬の存在でもあった祖母が逝った。
◇
それから数年の時が流れ、気がつくとボクは強い繋がりとなった安心という師弟に包まれていた。
それは体育会系を越す社会であり、一見 幼少時から続いていた母や兄からの虐待にも似ていたが心本髄がちがった。
師弟に学んだ血の繋がりだけではなく、尊し敬する想いを続けることで
家族という絆は己の築きからだと改めて身をもって教わっていた。
そしてそれは祖母からの伝えにも大きく重なっていた。
それに気づき、いつしか母と兄からのトラウマから逃げ、そして稼ぐ仕事になっていたボクは
忘れかけていた経験と築きの喜びを思い出すようにもなり、
仕事も本来の方向性へと向かい、時間にゆとりを持つようにした・・
滅多にないが稼ぎにならなくても家族が暮らす関西の仕事もつくるようにした・・
親父殿と会える回数も増えた。
そんなある日から親父殿は口にしだした
帰るたび、会うたび、電話で話しする時も・・
「帰ってこーへんかー?」
「こっちで仕事ないか~?」
「こっちでやっていけへんか~?」
たまに大阪で仕事はあっても当時そうは浮いてこない話し、
大阪自体にボクの職種が生かされるものではなく、到底無理な話だった・・
いや、その時その当時の生活サイクルが楽だという思いがまだあったのかもしれない・・
当時の職種を辞め、新たに仕事を見つけるのだったら出来たかもしれない・・・。
帰る回数を増やした そして兄夫婦にも許される限り顔を出すようにした。
庭でも話せる電波の強いワイヤレス式固定電話も買って帰った
(当時すでに骨董品だった美しいラインのダイヤル式をまだ使用していた)
親父殿からの電話は更に多くなった
「今 庭におんねん・・・」
もしくは兄と母の事だった
「すまんのう・・」
ボクの中では「今 庭におんねん・・」の方が胸に突き刺さった
そこには帰る度、痩せ細っていく親父殿の姿が心に突き刺さっていた。
阪神淡路大震災が起きた
ボクは約一カ月、父と母の元へ帰った
その頃からだったろうか・・ すでに見受けられていた親父殿の言動や行動にかなしき事柄が更に多く目立つようになった。
(親父殿の名誉を阻害する事は、絶対に記さないし誰にも話す事も永遠にない。)そして親父殿には携帯電話を渡し東京へ帰った
「おもい おもい」と言っていた
電話が掛かってくる回数が少し減った
やっぱり持ち歩かないのかな? と思っていると渡した親父殿の番号から電話が鳴る
「また ケイタイ忘れていきはりましたで~」
親父殿からの電話は限られてきた
その話の大半は兄と母の事だった
相談というよりも苦しみに近い悩みの話しを親父殿からされるようになりつつも 時は流れた・・。
そしてボクは歳遅くして守り築くべき新たな家族(結婚)ができた。 ボクは関西に帰る回数が減った・・・。
更に親父殿が変わっていった
ガリガリに痩せた親父殿は家を売却したいとも言い出した
そこには母と特に兄の存在があった・・・
ボクは元奥さんの顔色を窺いながらも 家族である孫や元奥さんの存在を親父殿にアピールした。
親父殿は最初は孫の存在に戸惑ってはいたが、それはけっして嫌いであったわけではない。
それどころかツルツルのほっぺの男の子が鼻の下にうぶ毛を生やし、
方やタオルに包まれていた筈の赤子が次にはヨチヨチ歩きで親父殿の膝元へ一生懸命挨拶しに来る孫の成長・・
「あかんっ ワシにさわったら(孫が)キタナ~なるっ(穢れる)」
真剣に焦りながら、鼻の下はのびていた。。。
行きつけのBarや飲み屋を連れまわす(カラオケのあるスナックは避けて)親父殿・・
孫自慢する姿の親父殿が見れた。
関西に帰ると親父殿の行きつけのオーナー、マスターやママたちに言われていた回数も増えだした
「こっちに帰ってきーなー」
「こっちでやりなはれや~」
元奥さんに相談したこともあった。関西への引っ越し以前に同居はありえないと。。。
とーたん自身に情けなかった・・・。
幼き頃に想い 憧れにも近い家族像があった
祖母のコトバ、父が与えてくれたニオイ、そして社会に出て教わった血の繋がりだけではない家族の築き・・
夢、理想でもあった家族
親父殿も自身の存在、生きるよろこびを確認出来る時だった。
自ら家族を愛し続けられること
どこからくるってしまったのか・・
いつしか、目の前の家族だけしか見えなくなっていました
いや 全てが見えなくなってしまっていたかもしれません
子(孫)が出来、家族への築きへの切っ掛けを掴みかけたのに 己の無力さに遠のいていく様。
あともうすこし・・ あともうひと踏ん張り・・・
気がつくと目の前の家族、紗礼の姿でさえ消えてしまった。
ボロボロになった親父殿とボク・・
それをキッカケに兄がでてきた・・
兄は弱った親父殿を所有物としてボクは会えなくなった・・
それから暫くたって公衆電話で親父殿から連絡があった
「たすけてくれっ・・」
居場所を聞こうにも親父殿本人も場所を説明できなかった・・・。
親父殿にとってこれからの孫との日々
それは家族の築きへの再チャンスであり、生きる希望でもあった
孫と共に 孫に助けられながら
あれをやりたい これもやりたい・・
親父殿と居れた最後の空間、2人で電車に乗っていた時にくれたコトバ
「(その為にも)ワシもまた色々せなな~」
僅か3回、新たなる家族を加えての家族の築きのはじまりであり、
何よりも孫の存在が親父殿の生きがいになった。
血の繋がりのない人から連絡がはいった・・
2009年8月24日 12時41分。
生き別れのまま・・
ごめんなさい
ごめんなさい 親父殿
愚息より