阪神淡路大震災 -1週間後の記録-
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- 2012/01/17(Tue) 05:46 -
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阪神淡路大震災 -1週間経った時- アナログビデオカメラでの記録(改訂版) 朝、夜明け前帰りの仕事でした 暫くしてニュースが流れました え!? どこ? たしかフジが最初にヘリショットで町を映しだしました。 中継記者も場所を特定できず永遠と画像が流れました。 そして高速の倒壊現場を・・ まさかだよな まさかね・・ そうまさに他人事にしたかったとーたん ↓
見覚えのある地形 建物・・
普段町を上空から見る筈もなく それでも あっ えっ! まさしく両親が暮らす家の傍の高速が理解できました やっと連絡が取れた親父殿や兄夫婦 親父殿はのんびり口調・・ 時間とともに報道で詳細が流れだしました 夜、暫くの仕事をキャンセル後継ぎをし 仕事用機材車にオフロードバイクと自転車を積み込む 翌朝ホームセンターでポリタンを数個、カセット式ガスなどを調達、東名で乗れるところまで車を飛ばしました・・ 被災地に近付くにつれ渋滞・・ 両親宅に着いたのはまた日が変わっていました 門は倒れていましたが、家は鉄骨製もあってか何とか一見無事。 庭から親父殿に声を掛け家に入れて貰う もちろん家材は倒れ放題 母は?と聞くと しらん・・と そこへ2階の王国から降りて来るなり あーだこーだと文句なのか要望なのか変わらぬ母の姿もあった 親父殿からちょっと外に出ようと誘われる 外に出た瞬間親父殿は唖然とした顔になった・・ 親父殿ははじめて外に出たようだった それどころか自分の部屋からも出ていなかった。(母は出ていたようだった) 持ってきた仕事用機材は建築用ではないが使い様、足りない資材は宝辺りまで調達し屋内や表を応急処置 数日掛け両親宅が落ち着いたところで改めて近所を周り連絡が取れなかったご近所探し。 外では24時間、真夜中も消防車サイレンや上空を着地待機するヘリのホバリング音と振動・・ 高速道の復旧工事も24時間体制で音と振動が伝わる それは余震なのかと思わす振動・・ 唯一区別の仕方は この震災独特の落下型ジェットコースターに乗ったような瞬間からはじまる 直下型地震は余震であっても特徴がありそれは続いた。 両親宅の壁やハメガラスのクラッグが日に日に伸びるのもひと目で解る 報道では日に日に亡くなられた方々の人数が増え続ける情報 それが更に上乗せされ たいした被害はなかった両親宅にいたとーたんでさえ恐怖と不安でいっぱいになった 夜、近所の浜に出ると神戸方面の空はピンクとオレンジが不気味に染まり踊っていた・・ それはまさしく地獄絵図でした・・・ 町を親父殿と歩いてみた 地元のちいさな食料品屋さんでは賞味期限ぎりぎりになった食料でよければご自由にどうぞと。 完全に倒壊した酒屋の店前ではタ―プを張り無料居酒屋・・ そんな中、他県ナンバーの車がポリタンクを1個数千円~1万位で売っている光景もあった・・ 夜夜中、被害の少ない閑静な住宅街を歩いてみた ワンブロックか2ブロック歩くと玄関先で微かに灯る電灯 そのお宅では人道り少なくとも通りすぎる人全てにに声を掛け甘酒や豚汁を振舞っている情景 一個人でもやれることはやっておきたい・・ そのお気持が十分伝わってくる・・ 地元のボランテアぐらいはできないかとお役所へ そこにはやることがないと・・ 山のようにある食料の差し入れで腹を満たすボランティアの人たち溢れかえっていた・・ 表にはここから先に行けない・・と足止めとなった物資トラックも役所前の細い道に溢れていた トラックの荷台には賞味期限が切れていく食料も積まれていた・・・ ボランティアの人たちにさえ他責や文句が多いお役所だったが、一応ボランティア登録だけでも・・としてきた その晩早速役所から応援依頼の電話が入る 機材や車、バイクを含んだ応援だった 軽傷だが怪我をされた方、一時ご子息宅へ引っ越すとその足として・・ 飲料水などライフ資材も各集会場などへ運ぶ事も多かった お役人関係や生協社宅(りっぱなマンション)の他責人任せ要望には最初はついていけなかったがそれも慣れた・・ 飲料水の入ったポリタンクを集会場へ運び役所へ戻ってくると運んだ筈の集会場からまた水の依頼・・ 何故?と思いながらも改めて飲料水を運び行くとポリタンクごと無くなっている事もあったがそれも慣れた・・ それは家屋財産大切な想いを失い不安と恐怖に路頭に迷う人たちに地元住人一個人が出来る事を 体を使って捧げている人たちがいてその情景に救われていたから・・。 震災から1、2週間経った頃だろうか、被害がなかった兄が車に背広姿で来た。 当時ハウジングメーカーに勤めていた兄は自社の家屋や他メーカー家屋の損傷を見たいと・・ 足代わりにバイクを出した。 遠巻きで家屋を見ては構造を説明をしてくる兄、聞こえないようにする自がいた・・ 兄の同級生が自宅倒壊で瓦礫に数日間埋もれていたが救出、数日前に病院を出て避難所にいるというので行ってみた そこには活気があった。見渡すと包帯やバンソウコウだらけの男性が自ら動き多くの人たちに頼られ走りまわっていた。 お~ 来てくれたんかー!とこれ以上のない笑顔と声 兄の級友だった・・。 帰る道中、アイツ可笑しな奴やからほっといても死なへん かまへんねん・・。 あんたが言うセリフじゃない・・とちょっと思った。 線路の踏切を渡る時、幾度か場所を尋ねられた 皆リュックを背負っていた 線路の先を見ると何人もの人たちがリュックを背負い大阪方面から神戸方面へと歩きにくい線路を歩いていました 皆、多くの人は車を使わず身内や知人の元へと向かっている情景・・ 自が情けなくなった・・ ベビーカーを見ることはなかった 背負子姿もあまり見なかった 前向き背負子 しっかりと赤子抱っこする親が多かった 町 住宅街 そこではそれが子にとって一番だった そんな日々を約一カ月・・ そんなある日、ふと 町を見渡すと・・ 急ピッチで進む復旧の中に復興再開発がみえました・・ ~地震という切っ掛けから始まった恐怖と不安 そしてかなしみ~ 家屋を無くし、家族を失い これからの生(活)きること・・ 希望でさえ打ち崩された人たちがそこにはいました 不安があふれる被災者のこころとは別に動いているものがありました。 自然界の中で人間が作り上げた文明 耐える自然を見過ごしていたのではと 地震 その先は人災だと・・・ 記録として多くの現実を撮り残したかった・・ ・・が、 まだ黒煙立ちのぼる家屋、恐怖と不安、途方に暮れる人々にはレンズを向けられなかった・・・ ※地震から約1、2週間は経った頃から少しずつ撮ったビデオです。 今もあの瞬間が心身に張り付きトラウマなどで苦しまれておられる方にはキツイ日記になった事をお詫び致します。 |
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